昭和42年04月04日 夜の御理解



 今日、午前中、奉仕をさせて頂いております時に、福岡からお参りになった方でございましたけれど。小さい、1年2カ月になる男の赤ん坊を抱っこして、そのおんばさんになる人、そのまた、叔母さんになる人、そすとその本人と、子供と4人で参って来たんですけれど。子供がないので、よそから養子をする訳、子供を貰いたいと言うわけ。可愛らしい男の子でした。
 それで、椛目の親先生が、貰うて育てても良いと云われるなら貰おうと、こう云う訳です。それで、私、御神意をお伺いさせて頂いたら、その事は直ぐに、御返事を頂いたんですけれども。けれども、手がかかるぞと云う事であった。これが、自分の本当に、お腹を痛めて生んだ子ならば、さほどにも無いけれども。人の子を云うなら育てる。人の子を自分の子として育てるのであるから。
 それは丁度、植木を移植する様なものじゃと。例えば、ここから、小さい時からこう、生えたと云うのではなくてですね。それを持って来て、よその庭から家の庭へこう植えて、移植をする様なものじゃと。しかも、1年2カ月もなっておるから、もうこれは大きくなっている。それでこれに例えば、添え竹を頂く、今の、ここの庭に、いっぱい、それがしてございますよね。つんばりがしてあります、竹でこう。
 それでも、やっぱり風が吹くと、もう根っから生えておった様な訳には参りません。と云う様にその手が要るんだと。そこんところを一つ、まあ覚悟の前で育てて頂いたら良かろうと云う様な事で、まあ、大変喜びましてね。まあそれは実に可愛いいんです。それで、もうその、やっぱ、親子に、赤の他人が親子にでもならんならんのですから、やっぱりその縁があるのですよね。
 絶対よその人に行かんのに、お母さんになると言うとそれだけは、兎に角そのなついていくんだそうです。ですからもう、椛目の親先生がもう貰うちゃいかん、育てちゃいかんと仰るなら、どうしようかと思うて、実は参って来たと云うとりましたがね。その事から私どもが、この天地の親神様と私どもとの事を一つ、思うて見なければいけないと思いますね。私どもが大天地に対するところの小天地。
 天地の親神様に対するところの、氏子とこう云うて下さる。いわゆる神様と私どもは、親と子のあいだがらにあるのです。それをそう教えて下さったのが、教祖の神様、いわゆる生神金光大神なんです。ですから私どもが、本当にここに親があったと、自分にゃそう云う天地の親と云うのが私どもに有ったと判った時が、信心がほんとに判った時だと思うです、お道の信心は。
 ですから、神様がそこんところを、判らせ様となさる働きが、色々にある訳なんです。ところが、そのだから、自分には親は無いと云や、まあそれまでの事なんです。神様はこの世に有るもんかと云うたら、それまでなんです。やっぱり無いと云う人には無いのだ。けれども、こちらが本当に、親神様としての一心、親神様としてのお慕いを申し上げるところの信心が、一心に出来るところから。
 成る程、天地の親神様だなあと。親だなあと。或る場合には本当になでたり、さすったりする様な、その可愛がり方をなさる様なおかげを下さるかと思うと。間違うと矢張り親ですから、間違うたら間違うたとお気付けも下さるし。云うても判らんなら、お気付けも下さる訳なんです。そこに信心する者とない者の違いを、親のある子と無い子程の違いと仰るんですけれども。信心させて頂いておってもです。
 天地の親神様と云うておって、唱えておってもです。ほんとに親としての親と私どもとの続柄にあると云う理屈は判っておっても。心から親神様と感じられない。そこにおかげが、本当のスムーズなおかげになって来ない。それは丁度移植をした仮親の様な感じ。親とは云うてるけれども、本当の親かどうか判らないと云った様な、半信半疑な親。ですから親も手が要るなら、子供も骨が折れる訳なんです。
 それは丁度、移植をした木の様なものである。私共がほんとに天地の親神様であると云う事が判る。それはなかなか体験を頂いていかなければ判りません。体験に体験を重ねていくところから、・・・今日草野の、椛目の井上さんのお母さんですかね。お婆さんにあたるですか、達の小学校の同窓会があったんですね。ここの部落に、(正敏)さんと云われる方が居られる。
 その方達が一緒にあったそうですから、どうでも合楽の金光様を一辺拝観さして頂きたいと云うて、昨日から申込みが有っておった。その方が見えられましたから、私もう午後か、夕方でしたから、私がずっとご案内さして頂いて、私の部屋、お茶でも上げながら、そしてまあ色々話したんです。皆さんどうでしょうかと。これがねこう云うま結構なお広前が、御造営なったんですけれど。
 この中にある道具の一つ一つがです、もう本当にその私があれが欲しい、これが欲しいと云うて集まったんではなくて、もう本当にこれがここ16年間の間に集まっとったんですよと。いわゆる、必要なものは必要に応じて、まこうして出来あがっおるんですよと。こういうおかげを頂きますためにはと云うて、色々お話をさせて頂いた事ですけども。ほんとにこの世の中にです有り難い事だなぁと。
 勿体無い事だなぁと云うて生活が出来れる、もし道があるとするならば。そういう道を本気で体得しなければいけませんと云うて、話した事なんです。もしあるとするならこの世をほんとに我情我欲で、金がなからなければもう一にも金二にも金、いやもう健康さえ有れば。ほんなら健康さえ持っておる人が、幸せかと云うとそうじゃない。ほんなら金は馬に食わせるほど持っておっても、その人が幸せかと云うとそうじゃない。
 金も要る物も要るのだけれど、健康ももちろん要るのだけれど。それよりもっともっと要るのはです、私共の心の中にいわゆる、幸せを感ずると云うかほんとに有り難い事だなあ、どんなに考えてももったいない事だなあと、こうもったいない有り難いと云う気持ちが、心の中から、こう湧いて来る様な生活を、人間の幸せではなかろうかと。そういう有り難いものが湧いて来る。
 もし道があるとするならば、その道を本気で一つ体得しなければいけない。それを私は、信心と云うのだと云うふうにお話したんです。ですから、ほんとにそう云うふうに有り難くなれる道があるならば、有り難くなりたいと云う願いが信心の願いなんです。又、神の願いでもあるのである。私共の願いでもなからなければならん、神様の願いでもある訳なんです。そこに私が只今申します様に。
 本当に親神様だなあと、親だなあと云う事を、本当に自分に心の底から判らせて頂く時です。親神様としての働きを十分に、私共の上に働きを現して下さる事が出来る。そういうおかげの現れておるのが、この合楽のお広前だと私は思うのです。ですからその始めからなら、理屈を聞きゃすぐ判る。天地の親神様の訳あいを聞けば、神様と人間との関係と云うものを、理屈をお話を聞きゃあ判るんだけれども。
 実感として親だなあと判った時にです。云わば手の要らんおかげ。神様は無理はなさらんおかげ。云うならこちらが願わんでも頼まんでも、下さるところのおかげと云うのが頂けるのじゃないだろうかとこう思う。天地の親神様、親神様とほんとに判るために修行する。その為に改まりもすりゃ磨きもする。そこに神様のお心が、こちらに通うて来る。親と子の繋がりというものを、愈々実感する事が出来る。
 そこに今日、子供の養子の事についてのお届けをさせて貰った時に頂く様に。貰い子であるために、やっぱり手が要るんだと。だからお道の信心をさせて頂いておっても、その、まあだ本当の親ではなくて貰い子的な、的な程度でおる人がどの位沢山有るか判らない。ですから神様も手が要るこっちも手が要る。こっちはどうぞどうぞと云うてお願いしなきゃおかげは受けられない。願わんでも頼まんでも親だもの。
 子供がひもじいと思うとりゃ、お乳を与えて下さる親の様に、お金がないなあと思われたら、神様はお金を下さるんです。願わんでも頼まんでも下ださる。それは親だからなんです。そんなら私達にも下さりゃいいのだけれども。みんなに、下さらんのは、まだほんとの親としての実感がないから、そこに通うて来ないのである。みなさん御道の信心とはどこまでも、親神様を親神様と悟らしてもらう、判らしてもらう事なんです。
 為に修行もする。お話も頂く。本気で神様に喜んで頂けれる様な修行もさして頂く。そこから、なるほど、親神様だなあと云う体験が生まれて来る。それを繰り返されて来るところにです。本当に親と子としての繋がり。いや、親としての、子としての働きあいと云うものがです。おかげというものは願わんでも。頼まんでもどうぞおかげ下さいと云わんでも、頂ける様になってるんだから。
 どうぞと、まだお願いしている間は、云うならば、まあだそれは養子ぐらいにしか、まだ判っていない時であると悟らにゃいかんと思います。どうでも一つ大天地に対する私共は小天地なんです。もう同じなんです一つなんです。ですから例えばこうやって、ほんなら、立派なお広前を御造営なったけれども。これは大坪總一郎の所有ではなくて、これは神様の御物だと私は思うておる。
 そこで神様は何じゃろうかい、それはお前の物だとまあ云うて下さる。いいえ神様の物。親の物と、子の物は、そういう区別がある筈がないでしょうが。親のもんな子子のもん、子のもんな親のもんと云うでしょうが。ところが世の中にはです。親のもんな子のもん子のもんな子のもんと言う様な事を言うから、間違う訳なんです。親のものは子のもん、子のものは親のもんと。
 本当の親だから子だからそれがそう云う風に思えたり、云えたりするのですよ。そこに、限り無いおかげの向上と云うのが始められたのです。そう云うおかげを頂かして頂くためにです。いよいよ天地の親神様である親様だなあと云うそこんところを、理屈の上に判らせて貰うと同時に、体験の上にも、判らせて頂かなければならんと、思うですね。
   どうぞ。